Pocochan通信

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    カテゴリ: 歴史


    1 樽悶 ★ :2019/06/03(月) 00:20:57.94

    [図表3]明治5年の身分

    (出典 amd.c.yimg.jp)

    [図表4]明治5年の職業

    (出典 amd.c.yimg.jp)


    ※省略

    ■「住んでいた地」と「名前」からわかる先祖の身分

    ◆名前から武士かどうかわかる⁉

    先祖が武士かどうかの見極めに大事なことは、二つ。「住んでいた地」と「名前」です。

    先祖が住んだ地は、武士がいた城下町だったのか? 武士と庶民が半々で住んでいたのか? 農村か? 漁村か? その地の藩は? を調べます。

    次に、名前です。江戸時代には、武士の名前、神主の名前、お坊さんの名前などがおおよそ分かれていました。現代では時代錯誤も甚だしい話ですが、当時は庶民が武士っぽい名前を付けることができませんでした。

    経験から来る感覚で判断する部分もあるので、やや難しいですが、例えば、必殺仕事人の中村主水。主に水と書いて「もんど」と読ませるような名前。これは武士としか思えません。また、北島三郎の木こりの与作のような「よさく」という名前。これはちょっと武士っぽくありません。

    ただし名前だけで、必ずしもわかるわけではありません。もう一段階深く話すと、武士は実名(じつめい)と通称(つうしょう)という二つの名前を持っていました。実名は、諱(いみな)ともいい、殿様の前などフォーマルな場で使う名前。通称は、普段使う名前。実名はいかにも武士っぽい雰囲気の2文字の名前。通称は、庶民とさほど変わらない名前です。例を出します。

    ・織田信長(おだ のぶなが)の通称は三郎(さぶろう)、実名は信長

    ・坂本龍馬(さかもと りょうま)の通称は龍馬、実名は直柔(なおなり)

    明治に入って戸籍ができたとき、武士は通称と実名のどちらかを選んで登録しました。実名登録なら武士とわかりやすいですが、通称登録だと、名前だけでは確定しにくくなります。

    ◆先祖が武士であった場合の調査方法

    江戸時代(1603~1867)は、全国に300以上あった藩では、藩士の名簿を作っていました。それを「分限帳(ぶん(ぶ)げんちょう)」といいます。「武鑑(ぶかん)」「士族明細帳」「禄高帳(ろくだかちょう)」などもありますが、内容はほぼ同じで、藩士の氏名・役職・禄高(年俸)などが記載されています。なかには、居住地や作製時期の藩士の年齢・家紋などが記されているものもありました。現在の住宅地図のような、城下町の屋敷地図が残されていることもあります。

    このような史料の多くは、地元の図書館や公文書館・博物館などに現在でも保管されていることが多く、丹念(たんねん)に調べることによって、その家の先祖がどのような身分の武士であったかが、より具体的に判明すると思われます。

    また、武士である先祖は、仕えていた藩に、家系図や親類書(武士が、家族・親類の氏名や仕官先、本人との続柄などを書いた文書)を提出している可能性があります。それらの多くは、筆字で書かれた古文書ではありますが、先祖が書いた家系図類を発見し、活字化することによって、江戸時代初期か、あるいはそれ以前の先祖のことまでが詳細にわかる可能性があります。

    いずれにしても、先祖がかつて仕えていた藩の史料は、当家の家系を調べるうえで、貴重な情報源となります。

    ●明治5年の人口統計(身分別・職業別)

    江戸時代は正確な人口統計が調査されていませんが、明治維新直後の1872(明治5)年の身分別人口によれば、農民・職人・商人・町人などの平民(庶民)が約3083万人、旧幕臣や藩士などの士族(武士、卒族といわれた足軽などの下級武士を含む)が約194万人、皇族・神主・僧侶が2666人いました(※諸説あり)。

    これを比率にすると、平民が93%で、士族(武士)が約6%、その他の皇族・神主・僧侶が約1%です。また、1873(明治6)年の職業別統計では、人口のおよそ79%が農業、6.6%が商業、3.5%が職人とあり、その他は雑業と分類されました。(続きはソース)

    6/2(日) 10:00配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190602-00020763-gonline-bus_all

    ★1:2019/06/02(日) 19:39:12.40
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1559477290/


    【【身分】先祖は武士か庶民か?名前で判断できる「戸籍読取」 「住んでいた地」と「名前」からわかる先祖の身分】の続きを読む


     太平洋戦争末期、鹿児島県沖を航行中に米軍の攻撃で沈没した戦艦「大和」の装備品などを展示する、企画展「海底に眠る軍艦―『大和』と『武蔵』―」が24日、広島県呉市宝町の大和ミュージアムで始まった。46センチ主砲火薬缶(直径50センチ、長さ90センチ)など初公開の18点を含む約40点を展示。

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    初公開された「大和」特有の46センチ主砲火薬缶=広島県呉市宝町の大和ミュージアムで2019年4月23日13時19分、隈元悠太撮影


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    世界で初めて乾電池を発明し、「乾電池王」と呼ばれた人物がいます。彼の名前は、屋井先蔵(やいさきぞう)。

    1863年、現在の新潟県長岡市に生まれた先蔵は、幼いころから天体や水車、コマなど回り続けるものに興味を寄せていました。13歳になると奉公に出て、時計店で働くようになりました。



    乾電池を世界で最初に発明した屋井先蔵(Wikipediaより)

    時計店で身を粉にして働くうちに、精密に回り続ける歯車たちのとりこになっていきます。屋井は機械についてさらに学ぶために上京し、東京職工学校(現在の東京工業大学)への入学を目指します。ところが、2度目の受験の際、正確な時計が周囲にひとつもなかったために、試験会場に5分遅刻してしまい、受験できないという苦い経験をしてしまいました。当時の時計は手動のゼンマイ式が主流で、街中で目にできる時計が示す時刻もバラバラでした。

    屋井はこのときの経験が引き金となって、電気で常に正確に時を刻む「連続電気時計」の開発に、情熱を注ぐようになりました。屋井の努力によって「連続電気時計」は完成しましたが、売れ行きはあまりよくありませんでした。その畏友は、電源に使っていた液体電池(湿電池)にありました。液体電池には、「冬になると内容物が凍り使えなくなる」、「ひんぱんに液漏れが起きるのでメンテナンスが面倒」といった欠点がありました。

    そこで屋井は課題を解決すべく新たな電池の開発に着手。日中は親戚が営む工場で働きながら、それ以外のほぼすべての時間を研究と開発に費やし、試行錯誤の末に薬液が浸み込んだパラフィンで炭素棒を固めて、液漏れしづらく改良した電池をつくりあげました。こうして、冬にも凍らず、液漏れしない電池が造られました。この電池は、従来の「湿電池」に対して「乾電池」と名づけられました。

    ところが、そのころの日本では電気製品が普及していなかったため、屋井の乾電池は発売当初、思うように売れません。

    そんな屋井の乾電池に転機が訪れたのは、1892年に開催されたシカゴ万博でのこと。このとき、東京帝大理学部が、屋井の発明した乾電池を使用した地震計を出品。この乾電池が国際的に関心を集め、その性能の良さが認められるようになりました。

    その後、日清・日露戦争が発生すると、厳冬の満州で照明や通信機器を使用するための電源として屋井の乾電池が採用されることになり、屋井の乾電池はようやく世間の人々の注目を集めるようになったのです。

    1910年 、屋井は、「屋井乾電池」を設立。乾電池の本格量産にとりかかりました。その際、筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確立しました。


    先蔵の発明した世界初の乾電池・屋井式乾電池

    屋井は、乾電池というものを世界で最初に発明にしたにもかかわらず、貧乏のため特許を取得することがなかなかできず、長い間、乾電池の発明者として名前を知られることはありませんでした。

    2014年、IEEE関西支部の推薦による「日本の一次・二次電池産業の誕生と成長1893」がIEEEマイルストーンとして正式に認定され、屋井の出身地の長岡市、出身校の東京理科大学近代科学資料館(以上は屋井乾電池が現存しないため)、ジーエス・ユアサコーポレーション、パナソニックの4者に銘板が贈呈されました。

    これによって地元長岡市の人々にも、屋井先蔵の名前が広く知られるようになりました。

    日本が、世界に誇るものづくりの技術。その一つの成果である「乾電池」発明のきっかけが、「遅刻」とは、なんとも人間臭いエピソードではないでしょうか。


    参考文献

    関連画像


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    全国の大名が西軍と東軍に別れて争った「関ヶ原の戦い」。この戦いに勝利した徳川家康が後に江戸幕府を開いたことは有名だが、実は戦いが全国に波及していたことや多数の攻城戦が行われていたことはあまり知られていない。「関ヶ原の舞台をゆく」では、関ヶ原の戦いの発端から決着や全国で起きた戦いを解説していく。



    大阪城、大坂城、豊臣秀吉

    大坂に天下一の城を築いた豊臣秀吉。彼の死が天下分け目の戦いの発端となった


    決戦が起きた最大の要因とは?

    天下分け目の合戦として、あまりに有名な「関ヶ原の戦い」。時に慶長5年(1600)の9月15日、日本全国から集まった20万人近い軍勢が美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で雌雄を決した戦いである。


    徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成(いしだみつなり)を旗頭とする反徳川勢力の「西軍」とが激突した決戦は、わずか半日で決着。「東軍」が勝利した。この合戦を制した家康が覇権を握り、約270年に及ぶ江戸時代への幕を開く契機となった。それまで100年近く続いた戦乱の時代から泰平の世へ変わる日本史の行方を、大きく決定づける合戦であったのだ。


    決戦当日は、東軍の圧勝で呆気なく終わったともいわれる「関ヶ原の戦い」だが、そこに至るまでは、日本全国を舞台とした長い抗争のドラマがあった。


    そもそも、なぜ合戦は起こったのか。それは合戦の2年前にあたる慶長3年(1598)の秋、天下人の豊臣秀吉が、京都の伏見城(京都府)で死去したためである。当然、その跡を継ぐのは彼の息子、豊臣秀頼(ひでより)と決まっていた。だが秀頼はまだ6歳の幼子で、政治などできない。そこで秀頼の配下(豊臣政権)に属する家臣団が秀頼をサポートしながら、国政を動かしていくことになった。



    秀吉死去〜関ヶ原開戦直前までの人物相関図

    秀吉死去〜関ヶ原開戦直前までの人物相関図


    前田利家の死で、内部分裂した豊臣政権

    豊臣政権の家臣団には、「五大老」と呼ばれる5名の実力者がいた。徳川家康前田利家(まえだとしいえ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでいえ)の5大名である。彼らが一致団結し、豊臣秀頼をサポートしていけば何の問題もなかったが、事はそう簡単に運ばなかった。現在も総理大臣が退陣すれば、すぐに次の総理が選ばれるのと同様、人々は秀吉に代わる次代のリーダーを必要とした。そして、その座をめぐっての静かな抗争が、秀吉の死の直後からはじまったのである。


    次代のリーダーの筆頭候補と目されていたのが、徳川家康だった。家康は本拠地の江戸を含む関東地方の多くを治め、その石高は全国の大名で最大の250万石。実力は群を抜いていた。秀吉の存命中から抜群の信任を得ており、秀吉の死後も京都・伏見城に留まって政務を執った。当然、彼自身も次の時代のリーダーを自負していたのだろう。いつそうなっても良いように、着々と足場固めを行なっていった。


    徳川家康、五大老、大名

    【徳川家康】五大老の一人。三河や遠江などを治めていた大名だったが、関東の北条家が滅ぶと秀吉に関東への移封を命じられる


    そしてナンバー2は、加賀(石川県)100万石の前田利家だった。石高こそ家康に及ばないものの、生前の秀吉とは長く苦楽を共にした仲で、豊臣家臣団でも人望はトップクラスだった。秀吉死後、利家は大坂城(大阪府)を拠点とする秀頼の養育係を任された。家康と違い、利家は譜代の家臣として豊臣家をまとめていこうと考えていた。


    徳川家康の伏見城(京都)、豊臣秀頼と前田利家の大坂城(大阪)。秀吉亡きあとの豊臣政権は、京都・大坂の二頭体制で動きはじめたのである。


    前田利家、五大老、大大名

    【前田利家】五大老の一人。織田信長に仕えていた頃から秀吉とは家族ぐるみのつきあいがあり、彼の天下統一事業に協力し、北陸に100万石の領地をもつ大大名となる


    ところが、その翌年の春、前田利家が死去してしまう。これで家康に唯一、単独で対抗できる存在はいなくなった。家康は秀吉死後の京都で、諸大名との婚姻政策を独断で行うなど、豊臣政権下にありつつも着実に自身の権力増大をはかっていった。


    亡き前田利家の遺志を継ごうとしたのが、近江(滋賀県)佐和山19万石の城主・石田三成だった。長く豊臣政権を支えた「五奉行」の中心として活躍する人物で、その影響力は小さくなかった。三成は利家の跡を継いだ前田利長(としなが)(利家の子)以下、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の四大老に協力を仰ぎ、家康の専横に対抗する。



    石田三成、五奉行、官僚

    【石田三成】五奉行の一人。豊臣政権の官僚として活躍し、戦では主に兵糧調達などの後方支援を担当していた


    だが、一方で三成は福島正則(ふくしままさのり)黒田長政(くろだながまさ)ら、武断派と呼ばれる大名たちと折り合いが悪かった。やがて、彼らの怒りを買って屋敷を襲撃されるなどの武力抗争を引き起こしてしまう。前田利家が亡くなって、抑えの利かなくなった豊臣政権は、早くも内部分裂を起こしたのである。


    加藤清正、武断派、

    【加藤清正(かとうきよまさ)武断派の一人。関ヶ原の戦いが起きた頃は領国の肥後におり、九州の西軍勢力と戦った


    福島正則、武断派、大名

    【福島正則】武断派の一人。清正同様、秀吉の親戚にあたる。賤ヶ岳の戦いでは一番槍の大手柄をあげ、5000石を拝領。その後も秀吉のもとで武功を多数立て、尾張24万石の大名となる


    黒田長政、武断派

    【黒田長政】武断派の一人。秀吉の軍師・黒田官兵衛(かんべえ)の息子。父と共に秀吉の天下統一事業で活躍し、豊前に12万石の領地を与えられる


    この騒動を鎮めたのは、誰あろう家康だった。石田三成は家康の仲介によって一命を救われたが、騒動を起こした罪で奉行職を解任されて佐和山城(滋賀県)に蟄居を命じられる。こうして政権の中心から外されてしまった。


    佐和山城、石田三成、居城、琵琶湖

    石田三成の居城・佐和山城は琵琶湖に面した要地に築かれており、「三成には過ぎたるもの」と謳われる名城だった


    続いて、家康は前田利長に謀反の兆しがあるとの報を受け、征伐の構えを見せる。怯えた利長は母親を人質に差し出し、家康に許しを乞い、本拠地の加賀から動けなくなった。家康は、このようにして実力のある大名を屈服させにかかったのだ。そして次に目をつけたのが、会津(福島県)120万石の上杉景勝であった。


    家康が上杉征伐に出た隙を突き、三成が挙兵!

    石田三成や前田利長が失脚し、家康の政治的影響力が強まると、その家康とよしみを通じる大名が日増しに多くなった。しかし、五大老の一人・上杉景勝だけは家康に従わなかった。景勝は領国の会津に引きあげ、築城や武備に力を入れはじめる。家康は豊臣家の名を使い、上杉に「謀反の企みあり」と疑いをかけたうえで上洛要求を行なったが、上杉は宰相の直江兼続(なおえかねつぐ)が「直江状」を送りつけるなどして家康の専横を糾弾した。怒った家康は、ついに上杉討伐軍を組織する。


    上杉景勝、五大老

    【上杉景勝】五大老の一人。軍神と恐れられた上杉謙信(けんしん)の養子で、もう一人の養子・上杉景虎との家督争いの末、上杉家の当主となる(米沢市上杉博物館提供)


    とはいえ、家康は冷静に事を運んだ。大坂城で豊臣秀頼に謁見して軍資金や兵糧を得たうえで、周到な根回しを行なっての出陣だった。こうして大義名分も得て「豊臣軍」の総大将となった家康は上杉征伐に出陣。福島正則細川忠興(ほそかわただおき)黒田長政など多くの大名を従えて会津へ向かったのである。時に慶長5年(1600)6月16日、関ヶ原決戦の3か月前だった。


    それから1か月後の7月17日、謹慎していた石田三成が大坂で、家康を糾弾する書状を各大名へ出し、「家康打倒」の兵を挙げた。三成は毛利輝元を総大将に担ぎ、宇喜多秀家など反・家康派の諸大名の協力を得て決起したのだ。


    毛利輝元、五大老、領国支配

    【毛利輝元】五大老の一人。謀神と謳われた毛利元就の孫にあたる。父の急死で幼い頃に家督を継いだため、叔父である吉川元春(きっかわもとはる)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の補佐を受けながら領国支配を進めた


    宇喜多秀家、五大老

    【宇喜多秀家】五大老の一人。秀吉の養女・豪姫(ごうひめ)(実父は前田利家)を妻としており、豊臣家の一員として扱われ、備前や美作などに57万石の領地を与えられた(岡山城所蔵)


    家康がそれを知ったのは7月24日、関東の下野小山(栃木県小山市)に陣を張っていた時だった。さすがの家康もこの知らせには狼狽したが、すぐに冷静になり、事を進めた。家康は上杉討伐を中止し、軍を反転させるや、目的を「石田三成討伐」へと切り替えた。家康に従軍して関東へ来ていた諸将の多くは、三成よりも家康に勝ち目があると踏み、それに従って西へと踵を返す。


    かくして、徳川家康方による「東軍」、石田三成方による「西軍」が結成され、両軍激突に向けて動き出したのであった。



    執筆/上永 哲矢(うえなが てつや)

    神奈川県出身。歴史ライター、紀行作家。日本史および三国志、旅をテーマとして雑誌・書籍・ウェブに寄稿。歴史取材の傍ら、日本各地の城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)がある。


    肖像画/クレジットのないものは東京大学史料編纂所提供



    (出典 news.nicovideo.jp)




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    鹿児島県内に残る出撃拠点やゆかりの地を訪問する「特攻隊慰霊ツアー」(後援・公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会)が、10月11日(木)~13日(土)の2泊3日の日程で開催されます。
    ツアーは産経新聞社が企画、サンケイツアーズが実施します。ツアーには、特攻隊員や遺族への取材を長年続けている宮本雅史編集委員が案内役として同行します。最終日の13日には、鹿屋市で開かれる旧海軍航空隊串良基地出撃戦没者追悼式に参列。ほかに知覧特攻平和会館(南九州市)、万世特攻平和祈念館(南さつま市)などを訪ねます。

    ■ツアー概要
    日  程:2018年10月11日(木)~13日(土)
    旅行代金:15万円(税込み)
    定  員:先着20名

    【主な訪問先(予定)】
    万世特攻平和祈念館(南さつま市)
    知覧特攻平和会館(南九州市)
    指宿海軍航空隊基地跡地(指宿市)
    望比公園(指宿市)
    海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿屋市)
    串良平和公園(鹿屋市)
    櫻花の碑(鹿屋市)

    【申し込み・問い合わせ】サンケイツアーズ(電話03・5283・8250、平日午前9時半~午後5時半、土曜は午後3時まで)

    配信元企業:株式会社産業経済新聞社

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    (出典 news.nicovideo.jp)




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