Pocochan通信

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    カテゴリ: 歴史

     真言宗の開祖で「日本三筆」の一人として知られる弘法大師・空海の直筆書を基にした拓本が四天王寺大学(大阪府羽曳野市)で見つかったと、高野山大学密教文化研究所(和歌山県高野町)の大柴清圓研究員が6日、発表した。書の内容は古くから知られていたが、特定されていなかった書の日付が今回の拓本で判明した。

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    弘法大師・空海の直筆書の拓本(冒頭部分)=四天王寺大「恩頼堂文庫」提供


    (出典 news.nicovideo.jp)




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    史跡巡りをしていると、思わぬところで有名人のお墓に出くわすことがあります。今回は都内品川にある、幕末に知られた土佐・長州藩士や大名の墓を紹介します。

    板垣退助の墓

    襲撃されたときに発した「板垣死すとも自由は死せず」で有名な、元土佐藩士で自由民権運動の父、板垣退助。

    彼の墓は京浜急行電鉄の「新馬場駅」からすぐ、品川(ほんせん)神社の裏手にあります。江戸時代は広く江戸を見渡せたという高台にあり、富士山を模した「富士塚」があり大変賑わいました。一見しただけではわかりにくいのですが、社殿の右手に小さな案内板が立っており、なかば訝しんで裏手に回ると、本当に板垣退助の墓があります。

    仏教式の墓石ですが、周りには寺はありません。何故ぽつねんと墓だけがあるのかというと、元々は高源院という寺の敷地だったのですが、関東大震災後に世田谷区へ移転してしまったのだそうです。大正8年(1919年)に寺に葬られた板垣の墓は、そのまま残されました。

    すぐ目の前は崖になっていて、眼下には民家の屋根が見えます。今は木々の葉陰に空が見える程度ですが、昔は見晴らしがよかったのだと思います。手前には佐藤栄作の揮毫した「自由は死なず」の石碑もありました。

    品川神社には、小さいながらも貴重なものばかり収蔵されている宝物殿があり、幕末三舟と言われた勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の揮毫した掛け軸などもありますので、幕末の息吹を感じること間違いなしです。




    山内容堂の墓

    旧東海道の「品川宿」を出てすぐの鮫洲駅近くの小高い丘に、「山内豊信(容堂)墓」はあります。

    山内容堂は土佐藩15代藩主。幕末の四賢侯と称された人物でしたが、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と西郷隆盛ら周囲の志士に揶揄されたように、心から倒幕に賛同していたわけではなかったようです。

    明治維新後は内国事務総裁に就任しましたが、かつての下々の者と馴染めず明治2年に辞職。隠居後は妾を十数人も囲い、酒と作詩に明け暮れる日々を送りましたが、長年の痛飲が祟り46歳の若さで脳溢血に倒れ亡くなりました。明治5年(1872年)のことです。

    墓所は
    遺言により「大井村の下総山に葬れ」ということで、かつての土佐藩下屋敷である現・大井公園に葬られました。周りには寺社もなく、本当にお墓しかありません。敷地は幼稚園と隣接しており、墓の向こうには金網越しに遊具が見え、草も生い茂り、かつての名君の墓とはとても思えない雰囲気です。

    酒豪ぶりで鯨酔公とあだ名されたほど大酒飲みだった容堂。
    同じ旧東海道沿いにある「品川利田神社」では、鯨碑があり、なんとなく鯨という言葉に因縁めいたものも感じます。

    画像出典:ウィキペディア


    伊藤博文の墓

    説明不要とは思いますが、元長州藩士で初代内閣総理大臣になった人物。歴史上、吉田松陰の松下村塾の門下生としても知られており、安政4年(1857年)に17歳の時に入塾し、後々尊皇攘夷運動に身を投じました。

    文久2年(1862年)には、高杉晋作らとともに、品川の御殿山のイギリス公使館の焼き討ちに参加したほどの過激派でしたが、藩命でイギリスへ密航し現地の大学で学んだあとは、一転して開国派になります。

    墓はJR西大井駅の北口から徒歩2分、西大井緑地公園のすぐ裏にあります。独立した神式の墓所で、鳥居があり、その奥には円墳の墓があります。右隣には梅子夫人の墓もあります。

    別邸が現在の品川区大井三丁目付近にあったことから、国葬後、近い場所に墓所が造られたとのこと。ちなみに伊藤博文の別邸は、平成10年に解体されたのち一部が山口県萩市に移されています。


    画像出典:筆者撮影、無料写真素材 写真AC


    いかがでしたか?遠く長州・土佐から離れ、奇しくも品川に葬られることになったかつての名士たち。品川近辺に集中しているので、一日でお参りに行くことも出来ます。

    志士とかつての名君がたどった数奇な人生の顛末に思いを馳せながら、お参りしてみてはいかがでしょうか。



    (出典 news.nicovideo.jp)




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     大阪市天王寺区の四天王寺に伝わる平安時代後期の国宝「懸守」の内部に高さ3.3センチの精巧な仏像が納められていることが分かった。四天王寺と京都国立博物館が9日、発表した。これまでの調査で納入品があることは知られていたが、具体的に確認できたのは初めて。当時の信仰の有りようを知る上で貴重な発見という。

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    国宝「懸守」をX線CTスキャンした画像。如来が見える=京都国立博物館提供


    (出典 news.nicovideo.jp)



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    江戸時代 幕末の忍藩(武蔵国埼玉郡[現在の埼玉県行田市])の下級武士であった尾崎石城(おざきせきじょう)という人物を知っていますか?尾崎石城は下級武士ではありましたが、江戸時代の暮らしを知る上でとても重要なおこないをした人物なのですが、その行いというのが「絵日記を書いた」ということ。


    尾崎石城が書いた絵日記は武士の日々の暮らしぶりがとても具体的に描かれており、とても重要な資料とされています。この絵日記は現在「石城日記」と呼ばれおり、1861年(文久元年)から178日間の暮らしぶりが記録されています。


    「絵日記を書いた」ことがどうしてそんなに重要なのでしょうか?江戸時代の武家の日常的な暮らしぶりが具体的に記されている資料というものは少なく、ましてや絵日記形式の資料というのはとても珍しいそうなんです。


     

    絵日記形式で書かれているので、字を読むことができなくても絵を通して当時の暮らしぶりを感じ取ることができます。日記として書いたものなので絵のタッチが略画的にサラサラっと描かれていて、そこもまた味があって可愛らしい。


    絵日記に描かれるシーンは主に屋内なのですが、部屋に置いてある家具や小物類も細かく描かれている場面も多いので、そういった細かな部分からも生活臭が出てきているのでしょう。


    それにしても酒飲みのシーンが多いこと。個人的にはそこがまた親近感があり惹きつけられてしまうのですが。下級武士と聞くと金銭面に苦労していたのではと想像しましたが、日記を見る限りでは食いぶちには困らない生活をしていたようです。

    尾崎石城は副業として屏風や掛け軸などの絵の制作をおこなっていたそうで、この副業によって生活が潤っていたのでしょう。さらりと書いた絵日記でもここまで情景を伝える描写に富んでいるのは、副業とするほどの画力があったからこそでしょう。

    現在、「石城日記」は慶應義塾大学文学部古文書室に所蔵されており、オンラインでも確認できますので是非チェックしてみてください。

    画像出典:古文書室展示会 資料4:『石城日記』

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    (出典 news.nicovideo.jp)


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